学習指導における聴視覚的方法〈上,下巻〉 (1950年)/デールの視聴覚教育 (1957年)(復刊して欲しい名著。)
- 作者: エドガー・デール,有光成徳
- 出版社/メーカー: 政経タイムズ出版社
- 発売日: 1950
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OPAC検索すると図書館に所蔵されていたので,これ幸いと上下巻とも借り出して読みました。
60年以上前に書かれた本とは思えないほど,古くて新しい,普遍的な価値をもつ視聴覚教育の名著だと思いました。
- 作者: 西本三十二,デール
- 出版社/メーカー: 日本放送教育協会
- 発売日: 1957
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まあそれなりに参考にはなりますが,やはり前者の上下巻の本が読めるなら是非読むべきでしょう。しつこくしつこく,学習におけるリッチな経験の重要性とともに,ただ経験すればいいと考えることの危険性,そして経験による学びは結果として何を目指すのか*1,ということを説いているからです。
このあたりを十分理解しないまま,各種メディアを授業に安易に導入することは,教育の営みの”自殺行為”にも等しいと思ったりしました。
言葉はしたがって,読むものの経験の量や質に応じて,意味をもつものなのである。この事実は,学習にあたって多くの利益をもたらす。なぜなら,言葉はわれわれを物そのものの性質や経過や概念から,われわれを自由にしてくれるからである。われわれは言葉を用いることによって,その言葉の意味するものを,われわれの身の回りに持って歩く必要がなくなる。すなわちその言語象徴を所持しさえすれば,物そのものを自在に操縦できるのである。
言葉はわれわれに精神の自由をもたらしてくれる。しかし,その自由に対する代償は何か。もしわれわれが空疎の言葉を使うならば,われわれは現実には何物をも持たぬことになる。そして言葉の象徴するものから,自由になることすら不可能になる。したがって自由に対する代償とは,言語を真面目に誠実に使うことによって,保証されるのである。言い換えれば,その意味が明りょうでない時には,如何なる言葉も使わぬという誠実さである。
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それにしても(古き良き時代の?)アメリカ(人)らしい書き方だったなあと思いました。
あと,前者(1950年)はかなづかいは旧ではないですが,使われている漢字が総て旧字で,lionusは何故か違和感なく読めていましたが(多分幼少の頃家にある古いがらくたな本を読んでいたからか?),若い人は「古文」のように見えてスムーズには読めないのではないか,と思いました。
*1:つまりは言語象徴を使いこなせるために・・・言語象徴=言葉の羅列である教科書におんぶにだっこで教えることを批判しているが,決して言語象徴としての言葉を否定しているわけではない。