lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加(「親方」的存在が不在あるいは見えなくなってきている状況ではどうなのか。)

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

4月24日の記事の本に引用されていたことをきっかけに、やはり「正統的周辺参加」による学習について知っておかねばと思い読んでみました。
本文は100ページ程度で長くはないのですが、社会学とかの素養がないlionusには、本文に続く結構長い解説(60ページくらい)と共に、さらっとは読めない内容でした。
教育工学系の学会や研究会とかで本書の「正統的周辺参加」が引用される際には、「徒弟制」という言葉がその説明として使われることがしばしばのように思います。この「徒弟制」という言葉からは「親方(先達)の背中を見習いながら学習していく」というイメージが容易に想起できるため、何となく「正統的周辺参加」という言葉の指し示すところが分かったような気になります。
しかしそれはあまりにも浅薄であったと、(訳本だけど)元の本を読んで反省しました。
「状況に埋め込まれた学習−正統的周辺参加」といっても、「状況」に投げ込みさえすれば(また別の言い方をするとすれば、何かの「活動」をすれば)「学習」できるわけではないことが本書を読めば理解できます。
その「状況」には「親方」がいて、その親方のようになりたいと学習者が憧れ努力することにより初めて「状況に埋め込まれた学習」が機能しはじめるのだろうと、本書を読み思いました。
しかしここでひとつ疑問というか悲観的な思いも浮かびました。
本書で徒弟制の例として扱われている「産婆」や「仕立屋」のように、そこに至る道程と熟練のイメージ(それを体現しているのが親方)が明確でかつ(ほとんど)不変である職業は、現在の日本ではどれだけあるのでしょうか。
本書で言われている「熟練のアイデンティティ」の発達は、徒弟制を例にとる限りでは、その内容はかなり明確で具体的なものに感じられますが、現在のそれは流動的で抽象的なものに移行しつつあるのではないのでしょうか。