lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

カウンセラー志望と愛情乞食。

lionusはかなり現実的な理由から母校を志望して入学したのですが,入学後に「もしかして自分は場違いなところに来てしまったのではないか?」と不安になったことがあります。

  • lionusの志望理由:英文科など英語専攻でなくても,英語の中高教員免許がとれて,なおかつ心理学を専攻にできること。大学では心理学を勉強してみたいが,卒業後は高校の英語教師となり何とかゴハンを食べてゆきたいという目論見。*1

しかし,入学後の専攻基礎ゼミ時には「カウンセラーになりたいです」と自己紹介する同級生が多数で,「人助けをしたいって思う人が沢山・・・」と感心するとともに,自分はそうではなく,単に人間の行動や心理に興味があるだけだったので,lionusはここに居てよかったのだろうか?と心細い気持ちになりました。
その後も「カウンセラー」になりたい!と強く思うことはないまま,ひょんなことから大学院に進学し,何となくここまで来ています。ただし,心理の仕事をするに際しては,これは仕事だ,という責任感で自分なりに努めています(当たり前です)。*2
なお,1年生の時に「カウンセラーになりたいです」と言っていた同級生の大半は卒業後はカウンセラーではなく,会社員や公務員になったりそれぞれの道に進んでいます。このような進路変更の過程に何があったのか私には分かりませんが,18〜19歳の時点で「カウンセラー」を志望するということはどういうことなのか,時々考えることがあります。

  • 榎本博明(2000)「語りのなかで変容していく<わたし>」 発達,82,29-37

他の論文を読むついでに見つけた論文です。
論文のテーマはタイトル通り,自己を物語るという行為による自己創造(変容)について,なのですが,とりあげられている学生相談事例の「語り」のあちこちに,(論文テーマとは関係ない角度から)ちくちくと引っかかる記述が出てきます。長くなりますが引用していきます。

人の話にじっくりつきあうせいか,自分はなんとも思っていない異性から勘違いされて面倒なことになることが多いことに気づいて,戸惑いを感じているんです。その中のある人から,”君が誘ったんだ。この気持ちをどこに向ければいいんだ”と,ひどく責められて当惑してしまいました。

だれとでもうまくやっていけるという自負が密かにあったんですけどね。実際に,つきあいの深い友人だけでなく,知り合ってからまだ日の浅い人からも悩み事をよく打ち明けられ,相談に乗ることが多いし,その際よく,”こんなことまで話したのははじめてだ”などと言われるし。とにかく私にはそんな才能があるみたいで。だから,カウンセラーに向いているかも,なんて思ったんです。

これまで人には優しいと,だれに対しても優しいから人を拒否することができないと思っていましたが,じつは人に対して温かい関心をもっていないから,どんな人にも同じように接することができるんですよね。その場の雰囲気をよくするために,自分の居心地をよくするために,自分に対して相手が好意的になるような態度を反射的にとっているというのも同じですね。

”あなたの心を丸ごと受け入れますよ。私には何を言ってもいいんですよ”と,優しさを装いながら異性に近づき,相手を自分の方に向けさせ,その愛情によって,自分の心の空虚さや不安を一時的に消し去ろうとしていたんです。しかも,相手の弱さをさらけさせ,無防備にさせた上で,相手がほんとうに求めているものには目をそむけている。

人から頼られ,求められることに自分の存在意義を見出しているんでしょうかね。

愛を渇望してやまないのは自分自身だったということに気がついてからようやくはじめて,「カウンセラー」志望の入り口に立てるのではないかと思ったりします。

*1:現在はlionusの出身専攻では英語の教員免許は取得できなくなっています。

*2:そして,その責任感が負える以上の仕事は受けません。よって現在の仕事は頻度・範囲ともにかなり限局されたものになっています。