lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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捨てられる銀行

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

捨てられる銀行 (講談社現代新書)

タイトルを見て銀行を「捨て」るのは監督官庁である金融庁かとつい思ってしまいました。
けれども、本書の終わりあたりでそうではないことが分かりました。
lionusもたいがい上ばかり見る”ヒラメ病”に毒されているようです。
さて本書を読むときには、Amazonのレビューも目を通しておくほうがよいかもしれません。著者は共同通信記者で、本書の内容はある程度”提灯”入っているかもしれないことを念頭に置く必要があるかもしれない、と思いました。
しかし、以前読んだ『銀行収益革命』と同じ方向性のことが書かれているばかりか、中小零細企業の立場から見た銀行(特に地銀)の姿に具体化して書かれているのはかなり意義があると思います。
色々と刺激的なのですが、特に以下2点が印象に残りました。

  1. 「短コロ」の消滅
  2. 法令順守だけでは地域金融は守れない

1.「短コロ」の消滅:

p.137
見慣れぬ専門的な金融用語で埋め尽くされた資料から女将が目を留めたのは、金融庁が地域金融機関に対して担保・保証に頼らない貸し出しを促しているという一文だった。
「これは、担保に頼らない短期継続融資と言いまして、昔は短コロとも呼ばれて、ごく一般的な貸し出しの手法だったんですが、我々が金融検査マニュアルを改定して、不良債権ではないかと見なしてしまったために、金融機関が一気に担保をとる長期融資に切り替えてしまったんです。
金融庁幹部が不良債権処理により中小企業への貸し出し形態が一変してしまった経緯を説明すると、女将は昔を懐かしむように、
「ああ、短コロ。聞いたことがあります。ウチの先代が申しておりました。あの時代と違って、今では地元の地銀さんは『担保価値が足りなくなったから追加で差し入れてくれ』という用事でしか、顔を見せなくなりましたからねえ」
場が凍り付いた。地元を代表する老舗旅館の女将が、怒りを通り越して、昔話のように「地銀の用事は担保だけ」と、むしろ穏やかに言ったことが、余計に金融庁幹部らへ衝撃を与えていた。

「担保・保証に頼らない貸し出し」なんてあるのか?と住宅ローンを利用しているサラリーマンなどから見るとびっくりかもしれませんが、lionus実家が零細企業(現在は廃業)で、地元信用金庫との関係を子どもながら幾分か見聞きしていた頃の認識と、「短コロ」とはフィットするような気がします。難しいことはよく分からないけど、信用金庫からお金を借りて常に借金がある状態だけど、そのお金で商売をすることで利益が出る、自転車操業的かもだけど、会社ってそういうもんだ、という記憶です*1
そうか、ああいう仕組みが絶滅してしまったのか、とかなりの衝撃でした。

2.法令順守だけでは地域金融は守れない:

pp.177-178
検査マニュアルの項でも触れたが、地域金融においては、引き当て処理をしながら、必要ならば追加で支援しなければならない。事業再生にはこうした場面にしばしば遭遇する。
こうした局面において事業再生に取り組む気のない金融機関の経営陣は、言い訳を繰り返し、まともに向き合おうとしない。例えば、拓銀カブトデコム事件、四国銀行株主代表訴訟のように経営陣の「特別背任」や「善管注意義務違反」が糾弾された過去の判例を引き合いに出し、預金者保護と債権保全の責任という「大義」の向こう側に身を潜め、地域が壊れていくのを自らの責任ではないとばかりに自身に言い聞かせて、遠目に眺めているのだ。
単に法律を守っているだけで、地域金融の責任を果たせるだろうか。無論、法令順守は必要だが、それだけでは地域金融は守れない。自らの持続可能な経営と地域全体の幸せ向上に貢献することを高度に両立させることこそ、より追求されるべきものだ。

見出しだけ見ると誤解してしまいそうですが、以前読んだ『法務の技法』にあった、適法=リスクを取らない、ではない、という旨の記述を思い出しました。

*1:「短コロ」についてはちゃんとさらに本書で説明されているのですが、ざっくり言い換えると、銀行が企業に出資して、金利という配当をもらっているような感じです。