lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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歴史としてのレジリエンス―戦争・独立・災害

歴史としてのレジリエンス: 戦争・独立・災害 (災害対応の地域研究)

歴史としてのレジリエンス: 戦争・独立・災害 (災害対応の地域研究)

叢書サブシリーズ「災害対応の地域研究」の4冊目だそうです。
新着図書で見かけて「歴史としてのレジリエンス」という言葉にひかれて借り出してみました。
複数の筆者が分担してそれぞれの専門から書いているのですが、必ずしも「レジリエンス」に引き付けて書ききれてないのでわ?と思わせられる内容もありました。ただ、どれもそれなりに「へぇ〜」と読めましたし、例えば、中国内陸部の少雨地帯の雨乞い儀式に使われてきた「大王像」が歴史の荒波の中で迫害・破壊された中で生き残った経緯(要するに、蝸牛考っぽい。中央から離れれば離れるほど、昔のものが残る傾向。)などなかなか面白かったです。
その中で、ハンガリーの赤泥流出事故とチェルノブイリ原発事故についての論考は、レジリエンスの源泉として多様性に言及している点でおおっと思いました。
本文引用の前に、最近見たあるツイートを引用します。

学長「なんとかスタンで事件が起きて日本人が巻き込まれた。専門家はいないか」
学部長「おととしまではいました」
学長「えっ」
学部長「あんたが大学改革だ役に立つ大学だってことで、人文系の研究者雇い止めにしたんだろうが」
学長「呼び戻せないか」
学部長「愛想尽かして家業継いだとか」

https://twitter.com/lm700j/status/750347584011505665

家業が継げるくらいならいいけどさあ・・・多くの場合「行方不明」になりそうじゃん・・・
本書を読んだ時、このツイートが多様性という一種のバッファーを排除した結果の戯画的表現のように思い出されました。
さて書籍本文からの引用です。

pp.338-339
しかし、別な見方をすれば、国家が社会の役割を果たさなければ、国家も存続できないのである。では、その国家を動かしているのは誰か。本章では国家と社会とを分断されたものとして捉えるのではなく、相互に重なりあう関係として捉えた。アイカの赤泥流出事件でも、チェルノブイリ原発事故でも、人々を災害から守るため、新たな基準作りに奔走したのは科学アカデミーや国家の専門行 政機関で働く研究者や専門家だった。彼らも国家行政の一端を担っているという意味で、「国家」の一部である。彼らは未知の災害や人々の被災という現実を前にして、既存の権威に依りかかったり、あるいは既成の基準に従って思考したのではなく、あくまで現実から出発して解決策を見いだそうとした。
もとより現実は一つではない。あるいは、一つの解釈しか許さない現実は存在しない。現実は多様である。既成の権威や従来からの基準にとらわれずに現実を見る、ということは、異なる選択肢を提示する、ということである。アイカ赤泥流出事故であれば、EUや国際基準とは異なる別の解釈を赤泥について示したことである。チェルノブイリであれば、ソ連政府やWHOとは異なる避難の基準を提示したことである。
異なる選択肢の社会的な提示という意味で社会のレジリエンスを理解するなら、どれだけ多様な選択肢を提示できるかが社会の回復力の大きさである。もちろん選択肢の提示だけでは不十分であり、現実的な力によって支えられる必要がある。しかし、現実的な力は、必ずしも既成の力ではない。ノヴォシルキ村への移住を実現させた25人の母親は、故郷のジョウトネヴェ村では少数の異端者だった。僅か25名であっても声を上げ続けることで、現実的な力に結実していった。それは全村挙げての早期集団移転にはならなかったが、集団移転が原則であるという大多数の意見にかき消されてしまった訳でもない。少数者の声も現実的な解決にたどり着く力になったのである。