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ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか

テレビは原発事故をどう伝えたのか (平凡社新書)

テレビは原発事故をどう伝えたのか (平凡社新書)

pp.257-258 2011年9月下旬にようやく映像資料が揃い,3月11日から3月31日までの期間のNHKと民放キー4局の映像を見続けた。最初の5日間は24時間すべて震災と原発事故報道だったこともあり,全体で800時間くらいの分量だろう。動物行動学者が何ヵ月も何年も動物の生態を観察するよりはずっと短いが,番組映像を2ヵ月ほど見続けた。全局を実際に見て検証する意味は十分にあったと思う。

800時間くらいの,しかも内容的に心を重くさせる映像を見続ける労力と,その検証結果を2013年3月15日初版第1刷,で出してしまうエネルギーに圧倒されました。
実際に番組を見続けた上で,テレビ報道はどの局も視聴者,特に当事者である原発周辺地域の人たちの立場には到底立ってはいなかったと厳しく断じています。
また,テレビ=マスメディアに対して,インターネット上の情報発信についてもふれられている箇所も読みごたえがありました。
面白い視点だな,と思ったのは,「マスメディア型の『情報の価値』とネット型の『情報の価値』の考え方が大きく異なっている(pp.229-230)」という仮説を述べておられることです。

p.230 情報の生産に際してその送り手側は,もちろん,誰かに情報を伝えたいという欲求や,あるいは伝えねばならないという社会的要請や社会的必要性に基づいて,情報を生産し伝達する。しかし,マスメディア型の情報において,多くの場合,「情報の価値」は「所有」という原理に左右される。自己が,他者を排しても情報を独占し所有することが,「商品」としての「情報の価値」を高めるという基本的な原理である。その原理の下に,情報は序列化される。そしてどの情報を発信するかが決定される。情報の生産も基本的に資本の論理に従っている。

「商品」としての価値が高い情報を流すことにより,視聴率が上がり,広告主からの収入も得られる・・・

p.231 しかし,福島第一原発事故に関するネット上の情報生産は,これまでの常識を覆すものだ。これとはまったく異なる原理や理念に基づいていたからである。つまり,「情報の価値」を「所有」におくのではなく,多くの人が情報を「共有する」こと,情報を「分かち持つ」こと自体に「情報の価値」をおいていたということだ。

pp.231-232 多くの人に知らせ,多くの人と情報を分かち持ち,共有すること,そのこと自身に価値を見出すなかで,情報の生産・移動・受容・補完が行われたのである。

そして,著者は,インターネット上の情報の分かち合いが進むことによって,

p.235 専門家や一般市民,そしてアクティビストなどさまざまな立場の者同士が,その垣根を越えて情報を発信し,共有できる環境が構成されたなかで,既存のメディアが造形してきたプラットホームを経由することなく,ボトムアップによるある種の「集合知」を形成する可能性が成立した。

という仮説も提示しているのですが,このあたりはかなり”楽観的”な見方かもしれません。
それは著者ご本人も分かっておられるようで,

p.236 これまで,一定のメディアリテラシーがあれば,既存のマスメディアよりも有益な情報をインターネットがもたらしてくれる状況が成立したと述べたが,それはあくまで,一定のメディアリテラシーがあれば,という条件を付しておいた。なぜなら,現実には,インターネットのなかの有益な情報を検索し,立体的に情報を編集できる社会層と,新聞やテレビなどからの情報を主な情報源とする社会層とに分化する傾向がみられるからである。

とも,しっかり書いておられます。