lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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法廷のための統計リテラシー―合理的討論の基盤として―

法廷のための統計リテラシー: 合理的討論の基盤として (ISMシリーズ:進化する統計数理)

法廷のための統計リテラシー: 合理的討論の基盤として (ISMシリーズ:進化する統計数理)

新着図書の棚で見つけて読んでみました。
本書は「ISMシリーズ:進化する統計数理」の第3弾に当たります。このシリーズは初めて知ったのですが,他2冊も面白そうですし,続刊予定も野心的な感じで,ぼちぼち読んでみたくなりました。
本書の執筆者は理系文系どちらも含むので,統計知識がほとんどない人でも,最終章「5 裁判における科学的な証拠/統計学の知見の評価と利用」だけでも読めるし読む価値はあると思いました。
lionusにとっては,主観確率客観確率について読めたこと,ベイズ統計学っぽい考え方を数式ではなく決定木で表現してみること,アメリカにおける統計的証拠の活用についてまとめたものを読めたことが収穫でした。
本書タイトルの第一印象として,(日本の)裁判では「統計」の活用がまだまだだよね〜と,関係者の統計リテラシーの必要性を訴える内容なのかな?と思ったのですが,その通りのところと,そうでもないところがありました。
まず,「そうでもないところ」

pp.103-104 データあるいは証拠の評価が司法の分野で深く考察されてきたことは,洗練された証拠の扱いの中に読み取れる。刑事裁判で被告人を有罪とする証拠について,「合理的な疑いをはさまない」とされているのは,深い考察を示唆している。ごく普通に考えると,証拠から判断すると,「犯人であることが証明されている」とか「犯人であることが完全にわかる」と断定的に述べたいはずである。実際科学者たちはどうしても結論を断定的に述べる習慣がある。しかも多くの科学者が本当に証明できたと信じている。しかし,司法の分野では誰にでもすぐわかる命題である「得られる証拠には有限の情報しか含まれないから,証拠から断定的な結論は導かれない」を正面から受け入れた制度になっている。優れた制度にはそれを支える人々の深い思考の跡が読み取れる。

一方,「5 裁判における科学的な証拠/統計学の知見の評価と利用」で日本の事例を挙げた上でまとめとして,次のように書かれています。

p.193 裁判官あるいは裁判員統計学的証拠を的確に理解できない可能性があることもさることながら,裁判における統計学的知見の利用をめぐる最大の問題点は,的確に理解できないということを裁判官らが自覚しにくいということにあるのではないかと推測される。純然たる物理学的・生物学的あるいは化学的な問題についての証拠であれば,門外漢であるということを認識して慎重に評価し,また,分析を加えようというインセンティブが働くのに対し,統計的な証拠についてはわかった気になってしまう傾向がありうることは([25]参照),5.2.1項で紹介したところからも明らかである。

「統計」の活用が低調であるというだけでなく,「××が○○な確率は99.999%です(キリッ」とか”専門家”に言われると「お,おう・・・」となってしまう感じ?
うーん。