lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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MI:個性を生かす多重知能の理論(脳の機能局在からの発想?)

MI:個性を生かす多重知能の理論

MI:個性を生かす多重知能の理論

通常、知能Intelligenceは単数形ですが、本書の著者ガードナーは、Multiple Intelligencesと複数形で扱っています。
多重知能とは、何かひとつの総体を「知能Intelligence」ととらえ、一次元的に考える(測定する)のではなく、それぞれ別個のモジュール的な”知能”が集まって機能している、という考え方のようです。
一読しても分かったような、分からないような、そんな感じで、でも現象を考える際の仮説としては面白いものかなという印象でした。

pp.40-41
間髪を置かず、私は神経心理学の研究者に変身した。そのときまで私が取り組んでいた問題は、「芸術家はどのように、彼らが示す能力を発達させ、どのように高い水準で創造したり表現したり、批判したりするのか」ということだった。

pp.40-41
だが研究はあまり進捗していなかった。それにはいろいろ理由がある。私自身は本当の意味で、芸術家ではなかった。当然ながら、たいていの芸術家は、自分の心を心理学の大学院生に切り刻まれるのを嫌がる。快くモルモットになってくれた人もいたが、自分の心のはたらきを洞察できるわけではない。そして、なにはともあれ、芸術家のスキルはまことに流れるがごときが一般で、前後関係を腑分けし分析するのは困難だとわかる。
(太字はlionus)

p.41
脳損傷による破壊は、こういう事態を変える。すべての脳卒中は、自然が被った事故であり、それを慎重に観察すると多くのことがわかる。たとえば、流暢に「話す」能力と、流暢に「歌う」能力のあいだの関係を調べたいとしよう。これらの能力が互いに関係しているのか独立なのか、いくら議論を続けても切りがないが、脳損傷の事実によって、まさに論争に決着がつく。人間の歌唱と言語は、別々の能力であり、独立に損なわれたり残ったりする。しかし逆説的だが、人間の<手話で話す>ことと声で話すことは、似た能力である。健聴者の話し言葉に寄与する脳の部位は、聴力障害の人の手話に寄与する脳の部位と(大まかに言って)同じ部位である。ここには、感覚・運動モダリティを横断する、基礎的な言語能力がみられるのである。

脳損傷のケースから偶然垣間見られたことから判明した脳の機能局在から、多重知能のアイディアに至ったのかなと思いましたが、同時に、へえ、ここからこういう発想に至ったんだ?と発想の自由さにびっくり。

(蛇足だけど気になったので)

p.54
すでに触れたように、ふつうの生活では、各知能は自由に、ほとんど際限なく混ざりあっている。だから研究者は、トラウマ(精神的外傷)脳卒中などの、自然の偶然を利用することが重要である。そうすることによって研究者は、特定の知能がどのようなものであり、どのようにはたらくのかを、鋭く浮き彫りにして観察できる。多重知能の研究者には、もうひとつの自然の恵みが与えられている。すなわち、脳損傷の記録はまったくないが、知能の特殊なプロフィールをもつ人々である。
(太字はlionus)

「トラウマ」を「精神的外傷」としているが、これは単に脳外傷のことを言っているのではないか?と違和感があります。原著を参照していないので、原文も特に「精神的外傷」としているのか、それとも「トラウマ=精神的外傷」と訳した結果、この文章なのかは分かりませんが。
「自然の偶然」として「脳卒中」を挙げているということは、脳実質が物理的にダメージを受けるケースを指しているわけで(続く文で「脳損傷」とも言ってるし)、その文脈では「トラウマ」は単なる「脳外傷(例えば交通事故とか)」を意味しているのではないかと思うのです*1。もちろん、精神的外傷=強いストレスによりPTSDを発症したケースでは、海馬が萎縮するとかいう報告を見たことはありますが、もともと海馬が平均より小さめだったんじゃね?という見方もできるし、精神的外傷即、脳に器質的なダメージという認識は広く共有されているとは思えないので・・・自分の認識不足なのかもしれませんが・・・?

*1:traumaは、単にフィジカルな外傷を指すこともあるし、特に精神的な外傷=心の傷を指すこともある。文脈依存。