lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

生者と死者と。

自己意識研究会第49回を聴講してきました。
今回のテーマは「『「自己」の産出性と位相性をめぐる諸問題」(小島康次先生,北海学園大学経営学部)でした。
ラカンの話などlionus猫にはチンプンカンプンで,自分の教養の浅さを痛感しました。
ただ,自分の研究テーマと関係の深い話がチンプンカンプンの海の中から,海坊主(?)よろしく,ぽっかりと飛び出してきたのにはおおっと思いました。
それは,(戦争やホロコーストから)生き残った者が死者に感じる「疚しさ」です。
関連して「広島の被爆体験を『語らない(語れない)人々』の存在」も指摘されておられました。聴講している時には,なぜ語らない(語れない)かの理由を死者への「疚しさ」として解説されておられ,lionusも(自分の以前からの研究からも)非常に納得できたのですが,後でもうひとつ理由があると思い出しました(思いつきました)。
それは何かというと,「どうせ話しても分かってもらえない」「ピカの日のことはいくら言葉にしても表現しきれない」といった自身が体験したことの表現できなさ,あるいは自身の体験を聞き手に共感してもらうこと(実感してもらうこと)への挫折感です。
語っても共感してもらえない(分かってもらえない)としたら・・・ただでさえ癒えない傷口に塩を擦り込むことになるのではないでしょうか。
誰だってさらに痛みを感じたくはないです。
だとしたら,癒えない傷口の上に絆創膏を重ねて封印することがとりあえずの方法となるでしょう。
・・・
ただ,戦後(広島・長崎原爆災害後)60年を越えて,lionusの心中を行ったり来たりしているのは,「このまま,被爆者の記憶を消滅させてしまっていいのだろうか?」という思いです。
非常に当たり前の話ですが,ひとりの人間が死ねば,その人の頭の中身(体験)は失われてしまい,二度とアクセスできなくなります。
被爆者の平均年齢は74歳を越えているのだそうです。
日本人の平均寿命は80余歳であることを考えると,残された時間は決して多くはありません。
極力考えないようにしてきたことなのですが,改めてこのことを考えさせられてしまいました。
lionus猫には全く手に余る話なのですが・・・