lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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心理療法とシャーマニズム(口封じに連れてゆかれてしまったのか。)

心理療法とシャーマニズム

心理療法とシャーマニズム

本書は,2002年1月に多くの人たちから惜しまれつつこの世を旅立った,故・井上亮教授の遺稿集である。

遺稿集なので,第1部:地球探訪(紀行文),第2部:専門論文(シャーマニズム関係以外の心理臨床に関するもの),第3部:心理療法シャーマニズム関連の論文(著者がアフリカのカメルーンにフィールドワークに出かけた後に執筆したもの)の3要素から構成されていて,寄せ集め感があるのですが,特に第3部は他に類をみないような独特の視点から書かれており,貴重な論文だと思いました。
沖縄のシャーマンである「ユタ」の取材を基に書かれた論文では,一般的な心理療法とユタの治療スタイルを対比させ考察をされています。
以下,少々長くなりますが,興味深かったところを引用します。

心理療法の事例においても,関係が煮詰まってくる,問題が煮詰まってくる,深い転移・逆転移関係を介してクライエントの問題の根っこの部分があらわになり,危機的状況に直面させられる。二つのリアリティの間を往復しながらも,クライエントの根っこの世界に照準が合ってくると,同時性の原理をはじめとした不思議なことが起こる世界の扉が開く。
しかしそんなことで喜んでいたのでは治療にならない。癒しの仕事が始まるのは,むしろそこからである。と同時に,治療者は危険な領域に足を踏み入れることになる。一般にシャーマンが依頼者の病気そのものとの直接的なコンタクトを最小限にして,儀式や呪薬の使用に移行する背景には,こうした事情が潜んでいる。

だからたとえば,ホスピスの仕事に従事していて体をこわす人が結構いるらしいが,死にゆく人を前にして真剣に癒しの仕事に取り組んだからこそであろう。つまりシャーマニズム的にいえば,依頼者の問題そのもの―<死にゆくこと>―との直接的なコンタクトをしすぎた。心理療法的に考えれば,まさに身をもって依頼者の苦悩を共感しようとしたのであろう。しかしシャーマン的治療の危険な落とし穴にはまってしまったようだ。その人がすべきは,患者によって活性化させられたその人自身の内なる死の問題を越えていくこと(解決はできないが越えていくのは可能であろう),それができたとき,死にゆく患者は少し癒される。

どうやって越えるのかが問題です。ただ,これには普遍的な(決まった)答えは有り得ないでしょう。
カメルーンでのフィールドワークでは,井上先生は実際に呪術医に「弟子入り」までされておられます。
フィールドワークで生じた疑問を多くの呪術医に問うた結果として,興味深かったものに「生け贄(sadaka)」と「プロテクション」の発想が挙げられています。
「生け贄」については,治療行為→治癒によって生じたバランスの崩れを吸収するシステムではないかと考えた上で,現代心理療法にはそれに類するようなシステムを見出していないと指摘しています。
次の「プロテクション」については,それについての記述を以下に引用します。

クスリ等を用いたプロテクションの発想だが,これは治療に直接携わる呪術医自身のプロテクションだけではなく,患者を含めた治療状況全体のプロテクトが重視されている。それに対して現代精神療法はどうであろうか?たとえば治療者に関して言えば,精神科医心理療法家は深い転移・逆転移関係あるいはフュージョン(fusion)の中で危険な状況に晒されやすいといった指摘はよく聞かれるし,実際にこの種の職業の自殺率が高いとも言われている。それに対処する制度として教育分析やスーバーヴィジョンがあるが,これらの目的は元来別のところにあるし,そもそも現代精神療法においてはプロテクション的発想を持たなさすぎるのではあるまいか。もちろん,呪術医たちのプロテクションの効果や仕組みについては定かではないが,少なくとも彼らはギンナージ*1の存在を信じ,かつそれに対するプロテクションの効果を信じて,この手続きを重要視している。それだけでも有効な守りに成りうるであろう。

鰯の頭も信心から・・・って茶化している場合ではなくて,心理療法にもプロテクション的発想は必要だと思います。治療構造がそれに当たるともいえるのでしょうが,他の箇所で治療構造を守ることが逆に治療の進展の妨げになっていたと考えておられるような記述が見られるので,それを踏まえた上でこのような考察が出てきているのだと思います。

*1:精霊,人の中に入り精神障害を起こすとされている