lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

がんばると迷惑な人(タイトルにドキッとした・笑)

がんばると迷惑な人 (新潮新書)

がんばると迷惑な人 (新潮新書)

図書館の新着コーナーで見かけて,まずタイトルにドキッとし(自分あてはまりそう・・・),次にああ,太田肇先生のご本か・・・ということで,新幹線の中で読みました。
「あとがき」より

p.201 長年にわたってわが国に成功をもたらした”がんばり病”も,新しい時代への適応障害です。工業社会にいちばん適応できていたわが国は,ポスト工業社会にいちばん適応が遅れた国になってしまったのです。

無闇矢鱈に力任せで”がんばる”ことは,がんばって何かを達成するというよりも,もはやがんばっていることをアピールすることが目的になっていないか,つまり手段が目的化していないか,ということ,そして,そもそも”がんば”って成果が出ていたのは農業社会,工業社会までである,ということが説かれています。
本書ではこの他,「二種類のチームワーク」というアイディアが提示されていたのが面白かったです。

p.174 私は,チームワークには二種類あると考えています。
一つは,ここで述べたような同質性を軸として成り立つチームワークであり,もう一つは逆に異質性を軸として成り立つチームワークです。

pp.174-175 前者は同じような能力や考えを持った人たちが,力を合わせて一つの目標に突き進むものです。必然的に,メンバーは「自分を殺す」ことが求められます。野球やサッカーなどのスポーツでも,わが国ではチームワークといえば自分を殺すことだと信じられています。そのため選手は,インタビューでも必ず「自分のことは考えず,チームの勝利だけを考えてプレーします」と答えます。
前述した突貫工事や歳末商戦の例でもわかるように,同質性を軸にしたチームワークではみんなが同じ方向を向いてがんばります。したがって,一人ひとりの個性は必要ありません。必要がないどころか,個性が発揮されるとチームワークが乱れるので個性的な人材は排除されます。
このようなチームでは,メンバーの間には単なる団結や結束があるだけで,それ以上の相互作用はありません。したがって正確には,チームというより集団と呼ぶべきでしょう。そして個人の場合と同じように,チームへの貢献よりも,がんばっているところをリーダーやメンバーから認めてもらおうという心理が強く働きます。

p.175 一方,後者は異なる能力や考えを持った人たちが,それぞれの力を発揮してチームの目標に貢献します。メンバーは「自分を活かす」ことでチームに貢献します。野球を例にとるなら,足の速い選手は塁に出て走り回ること,打力のある選手はヒットやホームランを打ってランナーを帰すことでチームに貢献するという考え方です。
p.176 実際の仕事では,映画や番組の制作,あるいは家屋の建築などがわかりやすい例でしょう。たとえば,映画は監督や脚本家,俳優のほか,撮影,音声,照明,設営などさまざまな専門家が力を合わせて仕事をします。家を建てるときも,建築士,大工,左官,水道,内装,電気といった専門家や職人たちが協力しながら作業します。
pp..176-177 同時に彼らは優れた映画や番組をつくり,しっかりした良い家を建てるという共通の目的のために協力します。脚本のすばらしさ,俳優の魅力は映画や番組がヒットすることによって認められるからです。
けれども,個々人の能力や貢献が作品のなかに埋もれてしまって見えなくなるわけではありません。極端な場合,できあがった映画はつまらなかったが,あの俳優の縁起はさすがだったとか,撮影技術はすばらしかったというように全体の評価とは別に個性が評価されます。
このようなチームでは,メンバーにとってリーダーやメンバーから”がんばり”を認めてもらうことはあまり意味がなく,自分の役割を果たすことやチームの目標を達成することのほうに関心が向けられます。

日本人は上記の「同質性を軸として成り立つチームワーク」を得意としてきたけれども,IT化が進展し,ハードよりもソフトの時代になった近年は,「一人ひとりが努力の量ではなく質で貢献する(p.179)」「異質性を軸として成り立つチームワーク」が大切になってきた,と主張されています。
ちょっと綺麗ごと過ぎるかもしれないな〜とも思いますが,考え方の方向としてはアリだと思いました。