lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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後悔と自責の哲学(後悔と自責の謎。)

後悔と自責の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

後悔と自責の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

トラウマティック・イベントからのサバイバーや被害者遺族、自殺者遺族にはしばしば強い自責感が残ることが知られています(具体例はすぐには挙げられないですが)。
客観的にみても、当人には全くの責任がないことにも執拗な自責感が残ることは、不可解であると同時に非常に困難で辛いことであります。
そういったことに何かヒントが得られないかなと読んでみました。
「どんなに確率が小さい出来事も現に起こる」

p.138
ですから、明日の「晴れ」の確率が60パーセントといっても、明日は「60パーセントの晴れ」が実現されるという意味ではなく、これまでのデータといまの空模様からすると、明日は十回のうち六回が「晴れ」と記述される天気が実現されるという意味にほかならない。ですから、明日それにもかかわらず大雨が降ったとしても、それは十回のうちの六回ではなく、四回のほうの天気が実現されてしまったので、全体として予測は「外れた」わけではないことになる。
しかし、以上の説明は説得力がありそうで、根本的な疑問には答えてくれない。すなわち、「なぜ、四回のほうの天気が実現されてしまったのか?」という素朴な疑問には答えてくれないことがわかります。いかに天気予報が明日の一回かぎりの固有の天気には意味がないとしても、明日とは一回かぎりの固有の時であり、その固有の時々において一回かぎりの固有の天気が次々に実現されることは確かです。

pp.138-139
ここに二重の不思議さがあります。
(1)天気予報は固有の時としての明日の天気を確率的にしか予測できないこと。
(2)固有の時としての明日の天気は、いかに小さな確率であっても実現されてしまうこと。

p.139
すなわち、いかに確率について理解しようと努めても、めぐりめぐって、「なぜ、次のシングルケースにおいては、いかに小さない(ママ)確率のものでも起こってしまうのか?」という単純な問いは依然として残ります。いかにどんなに起こりにくい確率のものでも、起こってしまえば、不完全に起こったわけではない。数千枚発売されたうち一枚だけの特等二億円の宝くじでも、当たってしまえば完全に当たったのであり、確率が数十万分の一より小さい航空機墜落事故でも、起こってしまえば完全に墜落するのです。

p.139
こうした疑問から、じつは「これまで」と「これから」とのあいだには大きな裂け目があることがわかってくる。あらゆる科学的知識がそれを無理やり「つなごう」と企てていること、確率など高度な論理を使って、いかにそれを巧妙になしとげようとしても、いたるところぼろぼろ綻びていくのです。

p.153
すなわち、狂うのではないかと思うほど後悔する人は「あれがなかったら、こうはならなかったであろう」と言えるような原因としての「あれ」を求めているのではないのです。むしろ、認めざるをえない一回かぎりの悲惨なこうなってしまったことに対して、もはや取り返しがつかないことを知りながら、いや知っているからこそ「なぜそれが起こったのだ?」と問うている。彼(女)ははじめから、答えのないことを知りながら、問いを発しているのです。いかに精緻な(内的・外的)自然因果性をもっても自分は満足しないことを知っている。どんな決定論をもってきても、偶然をもってきても、運命をもってきても、満足しないことを知っている。そして、それらすべてをなぎ倒して、ただ「なぜだ?」という問いだけが残るのです。