lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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イエズス会宣教師が見た日本の神々(「悪魔」が沢山出てきます。)

イエズス会宣教師が見た日本の神々

イエズス会宣教師が見た日本の神々

イエズス会の宣教師から見ると、「日本の神々」は「悪魔」でしかないので、本書は「悪魔」に関する記述だらけです(笑)。
twitter経由で以下の書評ブログ記事を読み,興味がわいたのでさらっと読んでみました。
イエズス会宣教師が教えてくれる400年前の日本
本書の内容については以下の記事も参考になるでしょう。
書評:イエズス会宣教師が見た日本の神々 G・シュールハンマー著 - 野口武彦(文芸評論家)
以下、自分のツボに入ったポイントです。

p.89-90
聖フランシスコ・ザビエルによって洗礼を受けた日本人のレイブラザー(助修道士)・ロレンソは、元吟遊詩人<琵琶法師>として日本の神話におそらくまったく未経験でなかったであろうし、またのちにはゴキナイ(五畿内)の貴族の居城だけでなく、<足利>将軍の館でさえも、キリスト教を広めたが、彼は1960年6月2日にミヤコから豊後の同僚にあてて、こう書いている。「センゴジュ(Sengoju)<真言宗の人>は、われわれ<宣教師たち>が彼らのデニチ(Denichi)<大日>を教えた<説教した>と言います。ジェンス(Jenxu)<禅宗の人>は、われわれのデウスは彼らのフォンベン(Fonben)<方便>だと言います。フォケソ(Foquexo)<法華宗の人>は、われわれのデウスは彼らのミオ(Mio)<妙法>だと言います。ジョンドス(Jondoxu)<浄土宗の人>は、われわれのデウスは彼らのアミダだと言います。またシント(Xynto)<神道>の宗派の人々は、それ<デウス>は自分たちが信仰しているコクジョ(Cocujo)<虚空蔵か>だと言います」。

p.90
これは、言い換えると、こういうことである。「真言宗の信者はキリスト教の神のなかに、自分たちの大日をみ、浄土宗の信者は自分たちの阿弥陀をみ、禅宗の信者は自分たちの方便をみ、法華宗の信者は自分たちの妙をみ、神道の信者は自分たちのコクゾー<虚空蔵か>を見た」と。

正月には神社に初詣、クリスマスを祝い、結婚式を教会で挙げ、盆には墓参りをし、葬式ではお経の日本人の節操のなさは昔からなんですね。
あと、この観察は的を射ていると思いました。今の日本人にも通じると思います。

p.129
仏教は、儒教とともに、倫理的概念の点で神道に欠けていたことをその信奉者にある程度まで提供した。それは、詳細な道徳理論、阿弥陀のパラダイス<極楽浄土>、極楽と地獄などである。神道と仏教は、人間の生活で役割を分担した。フローレンツはこう述べている。「人生は神道徒として始まるが、たいていは仏教徒として終わる。……それゆえ、両宗教が平均的日本人の生活で演じている役割の実際の相違は、つぎのようになる。神道の神々には、幸福なこと、喜ばしいこと、幸先のよいことと関連のあることを祈願する。ところが、仏陀には、人生の悲哀と死に関連したことを祈願する」。