lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

原爆市長―ヒロシマとともに二十年(祖父と孫の違い。)

3月16日に放映されたドキュメンタリードラマ「ヒロシマ 復興を夢みた男たち 」は本書の内容を下敷きにしていたようで、興味を持ちました。復刻版もあるようですが、幸いオリジナルが図書館にあったので読んでみました。
なかなか面白かったです。
ドラマ自体は情緒に寄りかかった”スカスカ”な出来に見えましたが、本書を読むと著者は原爆投下直後は市職員として、その後は市長として強力なリーダーシップを発揮して原子野を現在のような政令指定都市にまで復興させる道筋を作ったことがよく分かります。
東北の被災地の復興を願って番組を作るのであれば、市長が「平和記念都市」というコンセプトを軸にぶれなかった様を淡々と記述するドキュメンタリーにすべきであったのでは、と残念な思いがしました。
さて、記事タイトルに関して。
本書には昭和23年12月の昭和天皇広島行幸のエピソードが記述されています。

p.118
奉迎台へは、私がご先導申し上げる手はずになっていたのであるが、陛下がお召車から降り立たれると、待ちもうけていた群衆が、陛下と私の間を割ってどっと雪崩れこんできた。陛下はもまれながら進まれるというありさまで、宮内省の人びとが躍起になって気をもむが、どうにもつづまりがつかない。ようやくの思いで奉迎台にお迎えした陛下に、私から奉迎の言葉を申し上げたが、このときはからずも陛下から、前例のない次のようなお言葉を賜わった、
「このたびは、みなの熱心な歓迎を受けてうれしく思う。本日は親しく広島市の、復興の跡を見て、満足に思う。
広島市の受けた災禍に対しては、同情にたえない。
われわれは、この犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければならない」
お言葉が終ると、水を打ったように静かだった群衆のなかから、ドッと歓声があがった。つづいて寺田議長の発声で、「天皇陛下万歳!」を三唱したときは、群衆の歓呼は最高潮に盛り上がり、満場感激のルツボと化した。

p.118
奉迎場をおたちになるとき、再び私がお召車までご先導申し上げた。押し寄せる群衆に私は押しのけられるし、陛下はとみると、もみくちゃになられながら、やっとお車におはいりになった。そのとき、お車のドアのところに首を突っこんで、「どうぞ、陛下、お達者で」と、涙を流しながら、別れを惜しんでいる人があった。
無礼ではない!これが広島市民の真情だ。私はこの情景を見て、そう思い、また涙をさそわれるのであった。

これを読んでいたのと同じ時期に、皇太子ご一家が長野県奥志賀高原でのスキー旅行へ出発する東京駅で群衆の中の一人から「罵声」を浴びせられたニュースを見ました。
http://news.livedoor.com/article/detail/7574187/
群衆にもみくちゃにされ熱狂的な歓迎を受けた祖父。
群衆の中から「罵声」を浴びせられ、それを受けてか、群衆を「遠ざける」かのようにみえる孫。
何ともいえない気持ちになります。