lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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コッホの『バウムテスト第三版』を読む(バウムといってもお菓子じゃなくて。)

コッホの『バウムテスト[第三版]』を読む

コッホの『バウムテスト[第三版]』を読む

図書館の新着図書の棚で目について、手に取ったところ、対談形式で肩がこらずに読めそうなので借り出してみました。大昔バウムテストをかじったときにコッホの訳本はマニュアル的に読んだことがありますが、改訳されているのかとちょっと興味もありました。
久しぶりに臨床心理系の本を読みましたが、面白かったです。
なぜに「木」なのか、というところが腑に落ちる気がしました。

p.55
たとえば木と人間との類似性と言えば、まず「直立性」ですね。まさに人間がサルと分離したのは大地に二本足で立ったからですね。垂直軸が体勢軸になったわけで、ほとんどの動物は水平軸ですね。垂直軸が人間の基軸であるという点で、木がまさにパラレルですね。それから「上昇性」。樹液を上へ上へと押し上げながら、枝を上げ、さらに小枝が出、また葉っぱが出てという上昇性は、明らかに「精神性」のことを暗喩している。人間は高みに向かって、精神の高みをいかに実現するかという方向性を持ちながら、たとえばこうやって本を読むのも自分の内的なものを培いながら精神性をどうやって高めるかということのために本を読むわけですから、上昇性というのは、木との形態的な類似から内的な類似、本質的な類似を言っていますね。

p.55
それから、人間というのは手を広げると横に広がる。ちょうどレオナルド・ダ・ヴィンチが円の中に両手を広げた長さと頭から足までの長さが全部円の中に入るという図を描いていますが、木もまさに枝を広げていくわけで、横に広がっていく存在であるわけです。

横に広がっていく存在っていうのはよく分かりませんが、何となく直感的に分かる気もします(謎)。

p.172
相手を妙な形で刺激せず、侵襲せず、怖がらせることもなく、無理やり開かせるという構造をとらない。それが植物の良さだと思うのですが、そういう無害で、それと気づかなければその世界に入っていけないけれど、入れる人はすっと入れるという対象として木を選んだといえると思います。だからテストとしては、「人物画テスト」とか「家族画」とかいろいろありますが、最も中立的で、最も深く、最も歴史的で、生物学的にも系統発生を内包している対象といえますね。そういう意味で「バウムテスト」はすごく優れていると思います。

バウムべた誉め(笑)。
あとこれは笑ってしまいました。

(日本語に読み取れる木と人間の相応)
p.56
最初は目につく、相手との関係性になるとハが出ててくる、というのは、目では見るだけで、関係性は、もちろん精神的な関係性をとるのは目もやるけれど、歯が攻撃するわけです。葉は外の空気と炭酸ガスを吸って酸素を出し、手というのも関係性をつかさどるので、現在の最先端の科学的知見を動員しても、そのこと(人と木の類似性)に行きつくのです。私はそのことは、日本語を作った原日本人たちには見えていたのだと思います。だから、エダのエとテとは一緒のものなのだと。だから、木と人との類似性は日本の言語にも表れているというのが私の説です。

え〜って感じなんだけど、なんかいいよね。