lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

第4回日本情報科教育学会第1日目。

http://jaeis2011.seikyo.ed.jp/ →大会専用サイト
http://jaeis.org/ →学会サイト
TK先生のお供でJAEIS4に参加するため,幾央大学まで行ってきました。
情報モラル・情報倫理でまとめられたと思われる会場Cの研究発表を拝聴しました。
まずはTK先生による法学者からの提案的ご発表を拝聴。

中央大学杉並高等学校の生田先生による「提案:情報社会における個人情報やプライバシー,肖像権を多角的に扱う−社会と情報「情報社会における法と個人の責任」に向けて−」
→現場の先生としての奮闘がうかがえるイキイキとした印象を受けました。情報科の親学問は狭い意味での情報学に限らず,社会科学にも依拠するなど非常に幅広いと考える。自分は元々数学の教員だが,情報を担当するに当たっては,一旦数学的な考え方は忘れてしまって,情報に関係のありそうな・必要と思われる分野のことを勉強するとおっしゃっておられたのが印象的でした。

北海道大学の布施先生による「マンガを用いた情報倫理教育の実践と評価」
→一昨年のJSiSEだったか,このテーマで発表拝聴した際には,思わなかったのだけど,改めて,これって投影法じゃん,と。そう考えると色々「反応」を分析する余地は考えられるなあ〜と感じました。

京都ノートルダム女子大学の神月先生による「大学教員による小中学校における情報モラル指導」
→大人は子どものネットトラブル実態をよく把握していない(思い込みが強い),というデータは面白かったです。学校の授業が一段落して時間に隙間ができる休み前に,スポット講師として呼ばれるので自分的にあまり満足できる指導ができないのよおおおという不完全燃焼さへの叫び(?)が印象に残りました。問題提起なご発表と拝聴しました。

兵庫大学の河野先生による「情報モラル啓発のためのプレゼンテーション制作の実践」
→学生に情報モラル(啓発)をテーマとしたプレゼンをPPTで作らせる(情報モラル学習とプレゼン(PowerPoint)実習を合体させる),というアイディアは確か研究会でNB先生の提案として拝見したのが初めてだったと思うのですが(記憶違いでしたらすみません),それにインスパイアされた内容から発展させ洗練し,そして実践を振り返り反省して今後につなげようという極めて真面目で地に足の着いたご発表と拝見しました。思いついた→やってみた!こんなでした!で終わるのではなく,継続してPDCAサイクルとして回すことは大切だと思います。

大阪府立東百舌鳥高等学校の稲川先生による「コミュニケーションレベルを考慮したプレゼンテーション授業」
→「コミュニケーションレベル」の考えがいまひとつ理解できなくて,自分はいつも教養が足らんなあ〜と思いましたが,少なくとも,ただ,「ぱわーぽいんとをつかってえいごでぷれぜんしてみますた!」では駄目ですよ!ってことは再認識しました。PPTを使って英語でプレゼン,というと昔非常勤で行っていた学部で,そこの学生は英語の授業ではネイティブ講師相手にPPTを使って英語でプレゼンをしないといけなくて,それがまた大変で,その課題と格闘することを通じて英語はともかく,PPTの使い方にもついでに習熟してしまうと見聞きしたことを思い出しました。自分にとって不自由な言葉=英語を使ってプレゼンするということは教育上の効果をうながす何かがあるのかもしれないですねえ・・・どう説明が付けられるのか,今のところ思いつかないですけれど・・・

ところで,上述の生田先生は,発表後の懇親会で弁理士の先生とお話しされていたのですが,そこでの会話がlionusからみるとしばらくすれ違っていたように思ったので,割り込んで少しお話しさせていただきました。
すれ違っていたように思うというのは,ざっくり言うと,弁理士の先生*1は,法律的に考えるというのは極めて論理的に考えを展開するものなので,同じく論理的に考える数学とは共通する点があるのではないか(だから別に数学的に考えることを一旦脇に置く必要は無いのでは),という感じのことを生田先生とお話されていたのです。
でも,lionusとしては,それはちょっとズレがあるなと思いました。
確かに,弁理士の先生がおっしゃっている通り,法律的にものを考えるのは,本当に緻密に論理的に展開するものだと思います。
しかし,法律(法学)をはじめとする社会科学では,言葉で論理を展開する,道具として言葉を使うという性質のため,その言葉の意味を共有する人間の間でしか答えを共有することはできません。そして,言葉の意味というのは文化や時代の違いの影響を受けてしまいます(文化や時代が違えば言葉の意味も違いかねない)。また,「客観的に○○であると認められるなら」という条件がつくことがしばしばみられますが,その「客観的」は当事者の主観ではなくても第三者の主観です*2。だから文化や時代が違えば,法律や法律を使って導き出した答えが異なってくるのだと私は理解しています。
一方,数学では,数学は人が決めた「約束事」ではありますが,数学という土俵に乗っている限り,誰がやっても,いつでも,答えはひとつです。
こんな感じでビール片手にちょこっとツッコんでおりました。
懇親会といえば,こぢんまりとした大学食堂に参加者がぞくぞくと集合してきたので,テーブルの上に用意されたごちそうを見て,これ足りるのかしらとちょっと思いました。乾杯のあと,わらわらとテーブルに群がる人々を見て,ああもう遠目に見えた奈良の柿の葉寿司はすぐに無くなっちゃうかもと悲観していたのですが(笑),意外にも食事と飲み物はお開きになるまで,十分足りていました。これは男性が多いこの系統の学会では珍しいことです(笑)。おかげさまで菱沼並み(?)にぼんやりしているlionusでも,柿の葉寿司(←美味しかった)をはじめとした心づくしのメニューを満喫することができました。
他にも,アカペラの演奏など,アトホームな手作り感あふれるいい感じの懇親会でした。
懇親会の後は最寄駅まで奈良交通さんのバスを出していただいて大変助かりました。

*1:TK先生関係者

*2:ただし,だいたいふつうの人ならそう考える,というところを「客観的」と言っている。