投資銀行バブルの終焉(ある意味懺悔の書。)
- 作者: 倉都康行
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2008/07/17
- メディア: 単行本
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図書館でもずっと貸出中だったので,やっと先の年末に借り出すことができました。
筆者は邦銀と米銀に勤務し,本書ではやや中の人的立場から,金融商品の発展とその「暴走」を振り返っておられます。
証券化とは,従来利用価値がありながらそれを交換価値に表現できずにいた資産を,市場価値で示すという画期的な技術だったのである。
だがその論理の延長として,利用価値が乏しいものまでもプライシングという魔法を使えば交換価値が生まれてしまうことを,サブプライム問題は浮き彫りにしたとも言えるだろう。
利用価値と交換価値の概念はlionusは知らなかったので(経済学のイロハを全く知らない),新鮮だったです。
あと,最終章で新自由主義と投資銀行バブルの関係について述べられている点は非常に興味深いです。
従来の古き良き商業銀行を縛っていた規制から「自由」な投資銀行は,新自由主義=「小さな政府と大きな自由」のもとで,持ち前の「自由」を最大限に活用して活躍できる(できた)訳です。
だが,この米国が主導してきた新自由主義的なイデオロギーに基づく投資銀行スタイルの金融は,結果的に,その「自由」を拡大解釈し,さらにその裏に付着している責任を曖昧にしたが故に,大きく躓くことになった。
その自由の進展過程では,誰も責任を取らなくなってしまった。
リスクが分解され,分散される中で,責任感は雲散霧消してしまったのである。
ちゃんと返してくれるかどうか心配な相手へのローンを束にしてまぜこぜに切り刻み証券化したら,確かに計算上は「リスク」は分散化されて薄まるのでしょうが,一旦住宅価格が下落のトレンドになったら,一気にその「リスク」はまるで同時多発テロのようにぼこぼこあちこちで現実化するわけで・・・
続いて,筆者は
自由を武器にするなら,成熟した倫理感を持つ企業でなければならない
と書き,
問題はそうした手段(lionus注:アングロサクソン的金融工学の技術)をいかに経済発展のために用いるかという意識を投資銀行がどれだけ理性的に保てるか,である。
と説いておられますが,その「倫理感」や「理性」はどの程度必要とされるのか,そもそもどうやって涵養するのかのお考えまでは示されていません。
それが一番重要なのでせうが・・・