lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

トラウマの発見(「弱者」の発見。)

トラウマの発見 (講談社選書メチエ)

トラウマの発見 (講談社選書メチエ)

日本では1995年の阪神・淡路大震災を機に,災害など不意打ちで過酷な体験が「トラウマ」として心理的障害(代表例がPTSD)をもたらすことが認知されるようになりました。
本書は,19世紀後半の鉄道事故被害者における「鉄道脊椎症」なる「障害」の報告にはじまる,トラウマ研究の歴史を解説している好著です。
医学的見地からのトラウマ研究については,本書以外にも,精神医学系の雑誌論文や書籍にレビューが散見されるので,おかげ様である程度まとまった知識が得られます。しかし,精神分析分野におけるトラウマ研究については,日本語で書かれた分かりやすくかつまとまったものを今まで読んだことがありませんでした(lionusの怠慢もあります;他に訳本で探す必要があります;英語の原書も読むべきですが!)。本書はその今まで空白だった部分を埋めてくれる存在で,非常に興味深く読みました。*1

トラウマが注目されるには,ただその問題があるだけでは足らない。まず社会にある程度の安定がなければ,被害者の立場に立ってその事象を見ることができない。(中略)阪神淡路大震災が,日本で初めてトラウマに光が当たる機会になったのは,高度成長を経た豊かな社会がすでに存在し,かつ被災地の外に広がる社会が平常を保っていたからである。

条件のもう1つは,被害が一定以上の規模になって,社会現象と認められることである。ここでも阪神淡路大震災がその巨大な規模によって注目を集めたことを例としてあげることができる。

なぜ阪神淡路大震災が契機になったのだろうかということについて,もやもや頭の中を漂っていたことを,はっきりと言葉にして示されたようで納得しました。

トラウマ学は,ある程度以上の過酷な体験をすれば,誰でも限界を超えてトラウマ反応を起こすことを教えてくれる。(中略)言い換えれば,トラウマに弱いのが人間だということである。

トラウマの発見とは,弱者,あるいは人間の弱さの発見だと思いました。
筆者は上記の文章に続けてさらにこう書いています。

トラウマに強い人間を作るのは,人間を何か別のものに変えようとする試みである。

トラウマに弱いということは,トラウマをトラウマとして感受するだけの「能力」があることであり,それこそが人間であるということです。
(本書で例に出されています)完璧に強い「ターミネーター」は人間では有り得ません。

トラウマに弱いのが人間だとすれば,トラウマを起こしうる出来事を減らすのが最も良い対策である。

児童虐待に関心が深い筆者ならではの意見だと思います。
しかし,筆者は同時に「トラウマの加算量は無限」とも書いています。

じつは,あらゆる種類のトラウマが存在したにもかかわらず現在の人間がしあわせに生きることがまだ可能だということは,トラウマを修復する力が人間に備わっているということでもある。

変な類推ですが,馬鹿を自覚してこそ賢くなる可能性が出てくるように,弱さを発見することによりその弱さを強さに変えていく道もあるのではないかと感じました。

*1:論の展開には著者の趣味(立ち位置)が色濃く反映しているように読めるので,賛否両論はあると思います。