記憶の亡霊―なぜヘンリー・Mの記憶は消えたのか(ゆらめきうつろう記憶。)
- 作者: フィリップ・J.ヒルツ,Philip J. Hilts,竹内和世
- 出版社/メーカー: 白揚社
- 発売日: 1997/11
- メディア: 単行本
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何年かにわたって記憶という問題を探ってきたいま,私は記憶の中心的な特質はその可塑性にあると考えざるを得ない。記憶は一瞬のうちに変化しうる。古い感情,思考,知識に,新しい情報が加わり,上書きされ,あるいは混ぜ合わされる。記憶とは無限の建設がくりかえされるひとつの場だ。現時点におけるもっとも緊急な必要に応じて,正面が落ち,梁が移され,壁が吸い込まれ,あるいは吹き飛ばされる。
心的生活とは,間断なき物語とみなすことができよう。さまざまな断片を,流れる物語のなかにはめ込んで,私たちがどこにいたか,何が起こるのか,次に何をすべきかという文脈を作っていく。外部から入ってくる混乱したデータになんらかの意味をつけるのは物語である。外部には意味が全然ない。意味を作るのは私たちである。「物語」は,選択されたインプットの断片から私たちが作る構造に過ぎない。
20世紀始まったばかりで「意識の流れ」という用語を考えついたWilliam Jamesはすごいと思いました。
「意識はばらばらに分断されて現れることはない。意識を表現するのに『鎖』とか『列』といった言葉は,それをぱっと聞いて感じられるような意味では,適当な言い表わしかたとは言えない。意識は連結されてはいない。流れているのだ。『川』もしくは『流れ』という表現がそのもっとも自然なメタファーである。今後はこれを思考の流れ,意識の流れ,もしくは主観的生活の流れと呼びたい」(以上,上記の本からJamesの孫引き引用)
ちなみに,弟のHenry Jamesは有名な作家です。
記憶,心的生活,自己意識・・・が液体のような性質をもつとすると,それらを固体として考えるやり方では,たよりなく裏切られるのは当然です。
絶対位置関係ではなく,相対的な位置関係(相互関係)には意味があるかもしれない・・・とは思うのですが。筋違いな考えかもしれません。いやでも,そうでないと変数間の関連を探る意味がないです。