lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

NHKスペシャル 「復興〜ヒロシマ・原子野から立ち上がった人々」

カテゴリ「雑」か「研究」かで迷いましたが,6月4日に観た番組の視聴メモを,今更ながら書きます。
昨年2004年8月6日に放映されたものの,再放送*1です。
NHK広島放送局の番組ページ

アメリ国立公文書館で、被爆直後の広島を撮影した航空写真が多数見つかった。(中略)写真を入手した広島大学*2は、データをコンピューターに読み込ませ拡大し細部を検証していった。そこで見えてきたのは、廃虚で懸命に生きる人々の痕跡だった。

8月8日
道の上に100mに渡って人影→遺体が並べられている。
黒こげになった路面電車が,交差点をふさいでいる。
全焼した小学校。
3日後の,8月11日
遺体は消えている→火葬された。
路面電車は,交通の妨げにならないよう,道の脇に移動された。
何もなかった小学校に,白い四角→救護活動のテントが建てられている。

わずか3日間の間にも,生き残った人々による復興作業の様子がうかがえるということです。

原爆投下後1年8ヶ月の昭和22年4月14日には
焼け跡にバラックが。
原爆投下直後には崩れ落ちていた橋→再建されている。
壊滅的な被害を受けていた路面電車の車庫→車庫が建ち,電車の運行が再開。

番組は,以上のような航空写真によるマクロな視点の記述から,焦土に立つ広島市民個人の記述にうつっていきます。

広島市最大の商店街「本通」にある,江戸時代から続く老舗「赤松薬局」の店主,赤松偕三氏
原爆投下時には,薬学の専門学校に通うため,広島を離れていた。
急いで広島本通に戻ると,一面の焼け野原で自宅があった場所も分からない。
庭石を目印に家の場所を探り当てる。
庭石の辺りを素手で掘り返したら骨が。眼鏡やかんざしで父母だと判った。
「どして(庭石の辺りと)すぐ分かったのか分からんけど(爆死した父母に)呼ばれたんかな」
全てを失ったショックの中,思い出したのは少し前帰省した時の「もしも私に何かあったら庭先を掘ってみなさい」という父の言葉。
庭石の辺りを掘り返してみると,お金と薬を疎開させた先のリストが入った白い壺。
「親ってありがたいもんじゃのうと思いました」
焼け跡で,店の復興を誓う。

今も,本通に赤松薬局はあります。私も高校生の時,学校帰りに時々買い物をしていました。そして,例の庭石は当時のまま残してあるそうです。

爆心地近くで食料品店を営んでいた田中俊明
原爆投下当日は,暁部隊で救護活動をしていたため,自宅に戻ったのは翌日。
瓦礫を掘り返してみると,妻と子どもと思われる”2つの骨”が。
「赤ん坊を背負うとったと思うんですよ」
「悲しいを通り越して癪にさわったよね」
「(アメリカが)やりやがったなと思うてね」
もう,生活してゆけないと一時は広島を離れていたが,原爆ドームの近くで木が育ち始めているのをみて,70年草木が生えないと言われていたが,「こりゃ大丈夫じゃと思うて」翌年から爆心地に戻り白いテントを建て店を再開。
昭和22年4月14日の航空写真には,爆心地で市民に食料を配給する食料品店が写っているが,これは田中さんの再建した店。
市役所から斡旋されたバラックに商品を並べ,大八車で配達した。

そして,当時広島市役所勤務で,戦後は復興局課長となった村上敏夫氏を中心とした広島市の復興事業へと番組は展開していきます。
毎年8月6日は広島局製作の原爆をテーマにしたNHKスペシャルが放映されています。私もほぼ毎年観ていますが,2004年のこの番組は,従来の原爆の惨禍と非人間性を訴えるものとは違い,生き残った広島市民がどのように立ち直っていったかという”ポジティブ”な面に焦点を当てているところが印象的でした。
ところが,このような扱い方には否定的な意見もあるようです。以下,一部引用します。

大ドキュメンタリストとして名を馳せているA先輩が血相を変えて部屋に入ってきて、今終わった番組の評論を延々と始めた。彼の論調は、総じて言えば、この世界情勢の中で、広島を甘い復興の物語として描くという浅い知恵はけしからん。復興なら別に広島で描く必要はない、核兵器の惨禍にさらされヒロシマが問いかけている根本を全く消化ぜずに浅はかなロマンティシズムに酔っているだけだ。制作者が何にこだわっているのかわからない愚作である。これでは世界には通用しない。海外の人がこの番組を観たらなんのことだかわからないはずだ・・・・・。

「浅はかなロマンティシズム」という批判に対し,私は上記の田中俊明氏の言葉をもって反論したいです。

「原爆のことは頭から離れんよね」
「(でも)その日その日のことを一生懸命やるだけじゃけえね」
「焼け跡で沈んどってもしょうがないし」
「楽しい生活を目標に頑張ったよね」

核兵器の惨禍にさらされ」ても,生き残ってしまった以上は,毎日の生活を生きていかなくてはならなかったのです。悲嘆や怒りに自分の気持ちを蹂躙させている暇などなかったのです。その時,生きてゆく支えとなったのは,自分に「白い壺」を残してくれた親の愛情だったり,焼け跡に芽吹いた緑に見出した未来への希望だったりしたのです。
上のページで批判されている番組担当ディレクターは,それぞれ29歳,27歳の若手ですが,上記の田中氏のような言葉をよく引き出し,そしてよく物語を纏め上げたものだと思います。
核兵器の惨禍を強調することは,むしろ簡単です(誤解を招く言い方かもしれませんが)。当時の状況および,戦後の広島市民(被爆者)がたどった道のりは,どこをどう切り取っても悲惨で困難です。ひどいものをひどいというのは,容易いです。しかし,そのひどさを強調すればするほど,「ヒロシマ」はわれわれ第三者からどんどん遠ざかっていくような気がします。
昔むかし,ひどい目にあった「ヒロシマ」の人々,とラベルを貼って,大変だったね,可哀相だったね,もうこんなことはあってはいけないよね,と言うのは,もっともらしいですが実はとても他人行儀なやり方なのではないかと思いました。