lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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裁判と社会―司法の「常識」再考 (日本の“現代”)(文化、制度、合理的選択。)

裁判と社会―司法の「常識」再考 (日本の“現代”)

裁判と社会―司法の「常識」再考 (日本の“現代”)

12月9日の記事の、
名もない顔もない司法―日本の裁判は変わるのか (NTT出版ライブラリーレゾナント)
が読みやすくしかも面白かったので、この前に出版されたこちらも読んでみました。
やはり期待通り読みやすく面白かったです。
私は「法社会学」について基礎的な知識がないので、日本人と法律に関する数々の「常識」については存じません。しかし、本書でその「常識」とされるものは、乱暴な言い方をするとすれば、素朴な思い付き(仮説)を補強する材料を探してきて構築した「常識」ではないか、とまで思ってしまうほど、サクサクと「常識」を斬りまくってます。日本人が日本人(or社会/文化)について考える際にはまりやすい罠を示してくれているように思います(また、その「罠」は自分の属する集団に関して何かを論ずる場合にも有効)。

p.271
制度の詳細をみていくと、日本法に対する文化の影響というイメージには、さらに修正が必要になる。交通事件解決制度の運用の実態を超えて、その制度がいかに生まれ、また維持されてきたのかを探ると、そこには、ラムザイヤーと中里の言う「合理的選択」だけではなく、典型的日本人が調停を好み統一性を気にするという「文化的」要因と*ともに*(本文傍点)、少ない弁護士という「制度的」要因がみえてくる。文化と制度は相互に分かちがたく関係しており、ともに合理的選択がいかに働くかに影響を与えるものである。
(太字はlionusによる)

「日本の裁判所による規範の生成と政策形成」という章で、日本の交通事故事件処理の標準化と裁判によらないオルタナティブな解決方法の整備が、裁判官を中心とした法律専門家により組織的に推進された、という話のまとめです。
文化と制度の循環的相関関係でできあがった状況の中で、個人は合理的選択に基づいて行動する、というイメージは非常に参考になります。