lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

生命のつながりをたずねる旅(シダ類研究は趣味で続けますと将来の師匠に向かっておっしゃったとか。)

生命のつながりをたずねる旅 (シリーズ「自伝」my life my world)

生命のつながりをたずねる旅 (シリーズ「自伝」my life my world)

シダ類研究を基盤に、生物多様性や自然環境保全について積極的な問題提起を行い、また植物園・博物館などで生涯学習支援に取り組んできた岩槻邦男。いのちのつながりに対する、そのあくなき探求心の源はどこにあるのか。本書では、奥丹波の自然の中で育った著者が、シダ植物の魅力に目覚め、植物研究に没頭していった経緯、そして生物多様性の重要性を認識していった過程までを余すところなく語る。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b100601.html

↑出版社サイトの紹介文
ミネルヴァ書房のシリーズ「自伝」のひとつです。ぼちぼちと予定分が刊行されてきています。(意味もなく)オールコンプリートしようと思っていますので、こちらも読みました。
生物多様性」は最後までよく分からなかったのですが、植物園や博物館運営経験からの生涯学習についての考えが述べられているところは、興味深く読めました。
また、専攻された分類学は斜陽な分野だそうで、そのような分野の研究者としてどう考え活動してきたか、という視点でも読めるのではと思いました。
(追記2013/3/25)
読んでいて自分的に気になったところを長くなりますが抜き出して貼り付け、一部太字にしておきます。

第7章 生涯学習を支援する
p.267-268
ひとはくの新展開は、兵庫県内では、自然環境に関わる人たちの間でも、県の当事者たちの間でも、それなりの評価を受けるようになっていた。新展開の三年目、四年目の頃になると、県からの視察の際などにも好意的な発言が相次ぐことになった。自然系の博物館業界にも、ひとはくの活動はそれなりに注目をいただくようになってきた。はじめは、あんな過酷な労働強化をやれば、いずれ破綻するぞ、と冷ややかな眼を注いでいた人があったことに、私も気づいていなかったわけではない。しかし、それ相応の成果が上がってくると、冷笑派のつぶやきは弱まってしまうものである。
事業に関わるエネルギーが増大すると、研究に向ける時間が減るのはやむを得ない。私の立場で一番気になるのは研究の効率である。生涯学習支援をする博物館の役割としては、優れた収蔵物の維持管理を確実にして、実物を通じた学習支援をするのが最大の武器であるが、同時に学習支援は第一線で研究活動をしている研究者でないとできないものである。もちろん、インタープリテーターなど、熟練した解説者が必要であることはまた別の話である。しかし、たとえ優れた実物を用いたとしても、薄っぺらなコメンテーターが解説しただけでは見る人のこころに感動を与えるとは期待できない。たとえ、訥弁であったとしても、研究の面白さを現に体得しつつある人が語る価値の高い実物こそが、学びを求める人たちに理屈を超えた感動を呼び得るのである。
大学の講義についても、わたしは同じような意識をもち続けていた。教育が忙しいから研究する時間がない、と強弁する人がいた。しかし、高等教育機関である大学の講義は、知識の切り売りで成り立つものではない。世界中の大学で、教員に優れた研究者が求められるのは、高等教育を担当できるのは科学(人文学や哲学も同じだろうから、正確には学術というべきか)の第一線で現に貢献している研究者で、研究の意義を自分の行動を通じて披瀝できる者だからである。何も極限された専門領域の話が期待されているのではない。活動的な研究者はその研究のために、関連分野について、頭の中の知識だけでなく、自分の研究に直結するものとしての広い学識を備えているはずであるし、本当の研究者だったら、講義の中にそれが自然にほとばしり出るはずである。有用な高等教育は、そのような展開を必要とする。

第7章 生涯学習を支援する
p.279-281
生涯学習といえば、人が生涯かけて学ぶことを意味する。よく、ゆりかごから墓場まで、といわれるが、生物学的にいえば、受精卵から墓場まで、である(個人的には、文化に関する貢献は死後にも有効に機能することを考えれば、さらに幽霊まで、とも言いたいと思っている)。しかし、日本の生涯学習は生涯教育と同義語のように扱われ、成人教育の意味で語られることが多い。元来、胎教から始まって、幼児教育、家庭教育、学校教育、社会教育、成人教育らのすべてが生涯学習の一環だと受け止められるべきものである(生涯学習といいながら、その要素はすべて○○教育という語で表現するところに、図らずも日本人の意識が明示されているようである)。ところが、教育という言葉で語れば、学校教育こそが中核で、それ以外は学校教育を補完するものであるかのように理解される。それが、学校教育の成功によって西欧文明に追いつけ追いこせに成果を上げた日本の社会の常識になっている。
学校教育は知育を基本とする。知育には、すでに解明されている知識の集積を学び取ることが基盤となり、そのための勉強が求められる。勉強は読んで字のごとく、強いて勉めるものである。楽しいか楽しくないかは思量の範囲にはない。孫が小学校高学年の頃、著読を楽しんでいるわたしと並んで宿題を片付けていた時に、ジージは勉強が楽しいの、と不思議そうに訊ねたことがある。不思議がることの方が真っ当なのかもしれない。わたしの場合、仕事はもはや勉強ではなくて知的な活動なのであるが、日本の小学生には知的な活動はすべて勉強に見えてしまう。
知的な生き物である人の学びへの好奇心は、元来楽しんで展開するものだろう。知的な修練を行う学校教育で勉強が必要なことは否定しない。しかし、学習そのものが勉強であると誤解されてしまうのは危険である。さらに、知的な修練が、良い学校に進み、良い就職口を得て、良い収入が得られる大人に成人することだけを期待するものだったとすれば、これは人の生涯として何とも侘しいものである。人間らしく生きるとはどういうことか、それをまじめに考える人生を生きたい。
次世代にそのことを知ってもらうためには、学校教育だけを次世代育成と考えるのではなくて、全人的な成長を期待した生涯学習支援の中に、学校教育を正しく位置づける考えをとりたいものである。文部科学省では、生涯学習政策局が筆頭局である。しかし、教育といえば、初等中等教育や高等教育に比べて、生涯学習は片隅に追いやられる傾向がいっこうにあらたまらない。もちろん、日本で生涯学習支援に成果が上がってこなかった頃以来、今でも生涯学習支援こそが人の学びの基本を育てるものであるという自信が博物館関係者に乏しいことが、この問題の展開の障害となっている。

第8章 学ぶ歓び、生きる歓び
p.309-310
わたしが科学する基本的な問題意識は、生きているとはどういうことか、という疑問への解明に一歩でも近づくことにある。わたしの解釈では、地球上に生きている生き物は、三十億年前に地球上で生き物の姿をとるようになって以来一貫して、遺伝物質(=核酸)によって生きているという状況を引き継ぎながら、分子をつくる原子も、分子も、構造の最低の単位である細胞も、さらに多細胞でつくるようになった個体も、個体が集まってつくる種も、急速に古いものを捨て去り、新しいものに置き換えて、長い歴史を背負った情報をとっかえひっかえ新鮮な担荷体に担わせて、生きているという現象を演出している存在である。
(中略)
分子の構造に、情報を積み込むことで、生きていることを自在に演出しているのである。
わたしが知ろうとし、解析しているのは、生きているという情報が受け渡しされ、変異をつくるという原則に従って多様化してきた生命の歴史的側面から見た特性を、結果として多様化している現況から解明していこうという方法である。その意味では、生命は現象を演出する物質に注目するのではなく、現象の演出を制禦する情報に重点おいてみようというのである。それが、生命の実体を物質でなく、情報を分析的、還元的に解析することによって解明できるかどうかにかかっているという由縁である。