lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

情報を読む力、学問する心 (シリーズ「自伝」my life my world)(これは買って手元に置きたい。)

情報を読む力、学問する心 (シリーズ「自伝」my life my world)

情報を読む力、学問する心 (シリーズ「自伝」my life my world)

ミネルヴァ書房の『シリーズ「自伝」 my life my world』の第3弾目です。
前2冊は,すでに読み記事を書きました
この,長尾真先生の自伝も出版予定となっていたので,図書館に入るのを待っていました。そのうち色々忙しくて取り紛れてしまっていたのですが,ここ最近の自然言語処理マイブームで思い出し,読みました。
カフェで読んでいるのを忘れて「あ」とか「う」とか思わず声が出てしまいそうなほど,lionusの心を打つ部分があちこち出てきます。
心の師としたい感じです。これはぜひ購入して手元に置き折々に読み返したいです。
その他,京大総長など大学運営に携わったときの御苦労や,文科省の調査検討会議の座長等,国立大の独立行政法人化に関わるあれこれが書かれた第5章は,興味を持たれる方も多いのではないでしょうか。
最後に,思わず「あっ」と声を出してしまった部分の一例を,かなり長くなりますが抜粋してみます。

しかし中学生になると難しいこと,哲学的なことが頭に浮かんでくる。なぜ自分はこの世に生まれたのか,なぜ今こんなことをする運命にあるのか,自分はいったいこの世の中でどういう意味の存在なのか,将来自分はどうなってゆくのだろうか,といったことが次々に浮かんでくる。草を取りながら,こういったことを毎日考えた。考えたというよりは自然に考えざるをえなかった。

当時は敗戦後まもなくで,テレビは当然なかったし,聞きづらいラジオがあっただけだった。また田舎にはほとんど本などなかったから,自分の疑問は自分で考えるしかなく,どこか外に答えを求めるなどということは出来なかった。そういった思考の結果は,自分がこの世にいないということが最も世の中のためになるという結論だった。食料不足の時代に食糧を消費しなくてすむし,第一,他の生物を殺さなくてすむ。着物などにお金を使うこともない,一人でも少ない方が他の人や他の生物にとっては良いにちがいないといった理屈を考えた。

そういったことを鬱々と1年か2年ほど考えていただろうか。ある日突然次のようなことに気がついた。世の中の人がまじめな人ばかりだったら,皆自分が考えたのと同じ結論を持つことになるだろう。とすればこの世の中から全ての人がいなくなる。それは少しおかしいわけで,自分の考え方にどこか間違ったところがあるに違いない。そして考えた末にたどりついたのは,自分は皆と一緒に社会の中にいるということ,そのことに意味があるのだ。他の人についても同じであろう。お互いに仲良く共存することによって,自分がいなくなることによる社会への貢献よりももっといろいろと貢献してゆけることがあるにちがいない,前向きに建設的に考えれば社会の役に立つし,それでまた少しでも社会が良くなればよいのだといったことであった。

また次のようにも考えた。世の中のために尽す,良いことをする,すぐれた発明をする,といったことは皆が心がけねばならないことだろう。自分がたまたま皆の中で比較的優れたことが出来たからといっていばることはない。同じ環境にあれば他の人もしたであろう。それがたまたま自分であったというだけのことだ。社会のために一生懸命努力せねばならないのは全ての人に言えることで,自分がそうしたからといって特に自慢することはない。自分は自分だが,ほかの誰かであるかもしれない。特別に自己というものに固執することはないだろう。

要は良いものが出来ればよいのであって,誰がということは問題ではないのだと思ったりした。

その時の気持ち,考えたことを今適確に表現することは出来ないけれども,自分はその時夢からさめたというか,ある種の悟りを得たというか,そういった気持になった。自分を自分から消し去って努力するということが世の中に貢献できることにつながると悟って,大地を踏みしめて前を向いてしっかりと歩けるようになった。

それは自分を徹底的に否定すること,自分を無にすることによって,想像もしなかった広い世界が現れ出たということかもしれない。

今思い返すと,その当時の自分の到達した世界は純粋な一つの高みである。それ以後今日までいろいろと人間としての努力をしてきたつもりではあるが,その時の高みにはとても至りえないと感じている。