lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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ある法学者の軌跡

ある法学者の軌跡

ある法学者の軌跡

日本の法社会学の”巨人”川島武宜先生のオーラルヒストリーです。
ミネルヴァの「自伝」シリーズを読みつくしてしまったので(この7月に1冊新刊予定だそうですが)、この手のもので何か読みたいな〜と思っていたところ、何かのweb検索で偶然発見した本書を読んでみました。
自身のご研究についての語りなので、法学、法社会学についての基礎知識がないと、分からんな〜というところが多々ありますが、人の行動振り返りの話なので、若手研究者であった頃のこと、戦中戦後のご苦労のことなど、興味深く拝読しました。例えば、(旧)陸軍は日本の農村と同じノリであると見るとか。
中でも、大学紛争のくだりのところは、涙なしでは読めない内容でした。
例えて言えば、PCのHDの中身をごっそり失うという打撃というか・・・うーんうーんこれだけでは全然表現できていない・・・
あまりに悲しいお話なので、長くなりますが、一部引用しておきます。

pp.294-295
大学紛争から私が受けた打撃ないし損失は、いろいろの点でありました。まず私は、法学部研究室の「封鎖」によって、私の身のまわり品や文房具の一切と、大量の書籍とを失いました。封鎖解除後に研究室に入り、あちこちに散乱していた書籍を集めましたが、相当大量の書籍が行方不明になっていました。その中には、ドイツでも手に入らなくなっている古典的名著や明治初期の資料で今は手に入らぬものもあり、私は大へんに悲しい思いをしました。しかしそのような文献は、見ようと思えば東大の図書館で見られるのですから、この紛争によって私が受けた次のような研究上の致命的な打撃に比べれば、そのような物質的な被害は問題になりません。
第一に、定年まぎわの年齢に達していた当時、私は研究の時間を大はばに奪われました。あの紛争がなかったなら、私は、長いあいだかかって漸くまとめることができた法社会学の基礎理論を書き上げ、また民法学の体系的著述である『民法I』(第一版昭和35年有斐閣)を改訂してup to dateなものにした上、つづいて「民法II」の原稿を完成する(その下書きは、何年かの講義案として一おうできていました)つもりでしたが、何れもできなくなってしまいました。
しかし、私にとって決定的に打撃であったのは、研究室の「封鎖」によって、私が35年にわたって書きとめておいた研究メモのカードが失われたことでした。封鎖が解除になって直ちに研究室に入った私は、私の部屋がガランドウになっていて、背の高いファイリング・キャビネットも書類整理棚も箱もなく、亡くなられた恩師穂積重遠先生と末弘厳太郎先生の肖像写真が枠とともにズタズタに破られているものが床に散乱しているだけでした。そうして、私の研究カードは、廊下の床に散乱していて、私の秘書が「もしや先生のでは……」と拾ってきた3枚―何れも土足で踏まれて泥だらけになっていましたが―以外には、帰ってきませんでした。私は、打ちのめされたような精神的打撃を受けました。学者のしごとは、刻明な資料に裏づけられなくてはならず、また先人の業績が遺した貢献を正しく評価しなければならず、また問題となる論点に言及し解答を与えなければなりません。多くの問題にわたって書きためた私の研究ノートは、学術論文を書くために欠くことのできない前提条件だったのです。(中略)この研究ノートを奪われたことによって学者としての私は殺されたも同然だ、と深い深い悲嘆のどん底に突きおとされました。長い年月にわたる私の努力は、こともあろうに、長い間信頼してきた学生によって全く無視され破壊されてしまったのです。学問と学生とにすべてをささげてきた私は、空しい絶望感におそわれ、まもなく、すっかり健康を害してしまいました。

これ以外にも、大学紛争により講義が中断、試験ができないのでリポートを課したところ、一言一句丸写しのリポートが多数提出(=カンニング)されたため、学生を個別に呼び出して問いただしたところ、何らの罪悪感も表わさず平然としていたことに非常なショックを受けられたことも書かれています。
学問一筋の繊細な学者がこんな目に遭ったら、そらPTSDにもなりますわな〜と思いました。