レポート・論文の書き方入門(「問いがあって最後にその解決がある文章」が論文。)
- 作者: 河野哲也
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2002/12/13
- メディア: 単行本
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カスタマーレビューに見えた「テキスト批評」という言葉に興味をひかれ読んでみました。
非常に薄い本ですが、第3版まで重ねているだけのことはあります。
簡潔にポイントを絞ってまとめてあるため、”いまどきの大学生”に指導する際には、もう少し具体的なところ(行動レベルまで)を補足する必要があるかもしれませんが、「テキスト批評」の方法はゼミや文献講読の授業には参考になると思います。
というか、こういうゼミや講読の授業を受けてみたかったです。
最後に、「あとがき」が鮮やかな印象だったので引用してみます。
p115
知り合いのフランス人にふとしたことで、「論文って何だと思う?」と聞いたときのことです。「それは、序論で問題が示してあって、議論がなされて、結論がある文章だよ」と即座に彼は答えました。教科書どおりです。他のフランス人に同じ質問をすると、もっと簡単に「問いがあって最後にその解決がある文章だね」*1と言いました。彼は日本語が達者なのですが、「日本の雑誌や新聞の文章のほとんどは、論文とは呼べないな」とつけ加えました。以後、大学を出たフランス人からは、一様におなじ答えが返ってきました。
p115
大学でレポートの採点をしていると、テキストや広義の引き写しが多いのですが、根拠や証拠を示さない自己主張が同じぐらい多いのに驚かされます。それは、「言いっぱなし」ないし「聞きっぱなし」な態度です。そこに欠けているのは、相互的な対話であり、相手を説得しようとする表現であると気づきました。
p115
私見によれば、表現における欠落は、思考における欠落であり、同時にある種の社会的な関係の欠落です。本書にこんな問題意識を感じてくれれば幸いです。
著者の先生は、本書の他の箇所で「学問とは、根本的に問答ないし対話によって成立していると言ってよいと思われ(p8)」ると書いておられます。
日本の大学では「問答」や「対話」が足りないということではないかと読みました。
*1:太字はlionusによる。