lionusの日記(旧はてなダイアリー)

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評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」(下手な解釈はいらないけれども。)

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」

タイトルの「心に一人のナンシーを」とは、ナンシー関の大ファンである作家の宮部みゆきへの取材内容からとられています。

p.34
宮部はまた、ナンシーから自分を客観視することの大切さも学んだ、と言う。
民俗学者の大月(隆寛)さんが、ナンシーさんとの対談で、みんな心に一人のナンシーを持とう、とおっしゃってるでしょう。その言葉に私自身、とても賛成しているんです」
大月は「CREA」での対談で、ナンシーに向かって「ナンシーは街角で宗教に勧誘されたりしないだろ」と確認した後で、「勧誘するってのは相手の内面のどこかを揺るがせることだけど、あんた絶対にそういう動かされ方はしないもん。もう盤石の如き自意識。全盛期の柏戸もかくや、だな。(中略)正直言ってどうしてそこまで揺るがずにいられるのか、ずっと謎なんだよ。そうなれるまでに何をあきらめて何に腹くくってきたのか、って思う。だから最近は『心に一人のナンシーを』ってな」と言う。
ナンシーが「なんですか、それ」と突っ込むと、大月がすかさずこう答える。
「いや、みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」
(太字はlionusによる)

上記の太字部分についての答え(の可能性)として、著者は続いて宮部みゆきの発言を載せています。

p.35
ナンシーはしばしば自分自身を「規格外」と表現した。そうしたナンシーの自分自身との距離のとり方が、宮部の言う客観視と結びついていないだろうか。

p.36
私もナンシーさんに似たところがあるんです。家庭を持たない、子どもがいない、小説の中に恋愛の要素があまり入ってこない、というところなどです。それって、周りから見ると一種の”異邦人”なんですよね。ナンシーさんが身を置いていた生活空間の中で、規格外という言葉には、ナンシーさん自身も自分を”異邦人”と感じている感覚が表れているのかもしれませんね。私がナンシーさんの作品に惹かれる理由の一つもそこにあるのかもしれません。

ものすごく乱暴な言い方をすれば、「規格外」とは「オンナを捨てた」ということかなと思います。
本書は多くの人に取材し、あちこちに散らばっている著作を拾い上げてナンシー関のキャリアと人となり、私生活の一旦についてまとめ上げている力作でした。
「ナンシーの外見と文章」と題したセクションについて、長くなりますが引用してみます。

p273-274
対談がはじまって一年半ほどたったころ、「やっぱり『デブ』は禁句なの?」というお互い体型について語り合った回がある。

p.275-276
大月はこう言う。
「そのころまでには、ナンシーとの間にラポール(親和関係)ができていると思ったからできた対談。対談でナンシーは、コンプレックスをバネにして書いているわけじゃない、って言っているけれど、俺が聞きたかったのは、でも内面がナンシーのままで、外見が内田有紀宮沢りえだったら、同じ文章を書いていたかといえば、書いてなかったでしょう、ってことですよ」

p.276
ナンシー関の外見は、その仕事に影響を与えたのか否か。もし与えたとしたら、どの程度の影響を与えたのだろうか。ナンシーの女性性をどうとらえるのか。

p.277
この問いに対する答えは、聞く人によって千差万別である。

p.279
私は決して、ナンシーが太っていたことのルサンチマン(恨み)を晴らす手段として、世間から辛辣にみえる文章を書いていた、とは思っていない。

p.279
しかし、もしナンシーがその体重を平均値にまで落とすことができたとするなら、テレビにしがみつくようにコラムを書き続ける以外にも、お化粧をして着飾ったり(中略)
しかし、そうした女性としての生きる楽しみや華やかな部分を、二〇歳までにすっぱりと切り捨てると決心し、仕事に打ち込んだことが、ナンシーが成功した一つの要因だったことは否定できないように思える。
(太字はlionusによる)

その通りと思うけれども、同時にそう思わないと思う自分がいます。
太っていたのは単なる結果であり、その結果についてどう対応するかはさまざまなバリエーションがあり得ます。太っているからといって別に「女性としての生きる楽しみや華やかな部分」を切り捨てる必要はありません。事実、「肥満女性」が恋愛結婚したりファッションを楽しんでいる例はいくらでもあります。
太っているという結果についてどうしてこのような対応になったのか、それについての考察まで至っていないのが、amazonのレビューでも賛否両論ありのもやもや感につながっていると感じました。
上記に続いて「ナンシーが同じ体型であっても、もし男に生まれていたならどうなっただろう」と仮定し、男は女と違って外見以外の要因=人間的魅力や社会的成功で異性を引き付けることができる→結婚して家庭も持ったのでは、というようなことを書いておられますが、私はそうは思いません。
もし彼女が男として生まれ同様に「デブ」であったとしたら、やはり同じようであったと思います。
なぜなら、彼女は「含羞の人」であったと見えるからです(なおこのことは本書の他の箇所で指摘されています;その点では著者はきちんと仕事をしています)。
付け加えるならば、「含羞」のさらにバックグラウンドには「美意識」もあるように想像します。
「美意識」のもとでは、「デブ」(男女を問わず)が愛だの恋だのするなんて耐えられないウゲーいたたまれない、と思うのではないでしょうか。さらには自分の半分複製物である子どもを持つことなど、とんでもない!とも思うのではないでしょうか。
著者はナンシーが健康に一向に気を使わず、仕事量を減らすこともしなかった結果、39歳の若さで亡くなってしまったことは残念である旨のことを、形を変えつつ何度も書かれていますが、結局、こういうことなんでしょうね。

p.317
この本の取材をしている間に、私は宮部みゆきの書いた時代物『日暮らし」を読んで、こんな一節に出会った。
(中略)
「芸は身を助けるが、身を殺しもする。」