lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

同じようなテーマのお話があちこちで拡大あるいは縮小再生産。

「仕事」ではなくあえて「人間」カテゴリにしてみました。
学校は何のための装置か〜教育をめぐる経済学(WIRED VISION
最近はキャリア教育なるものが盛んですが,どうしてもそこから一歩引きたい思いのモヤモヤが一瞬サッと晴れた気にしてくれました。

アメリカの教育について実証研究を積み上げることで、ぶっちゃけていえば、「学校制度は、平等化機能を果たすどころか、不平等を助長してさえいる」、という実に過激な主張をしたのである。つまり、「子どもの学歴や成人後の成功は、親の社会的地位に最も大きな正の相関を持ち、IQテストの成績や子どもの実質的能力とはほとんど無相関である」、ということを言ってのけたのだ。

日本でも1980〜90年代くらいに同じようなことが言われてましたね。*1

学校における「成績の良さ」は、決して、クリエイティブな性向を意味するものではなく、むしろ、企業に就職したときに「いかに従順に忠誠を誓い企業戦士となれるか」を表すものだ、ということである。この「対応原理」は、かなり衝撃的な指摘であるといえよう。学校は、「エソテリックな知識」を培うどころか、単なる「企業のしもべ」に堕していることが明らかにされたのだから。

結論だけ読むと,あるあるある〜って感じだけど,こういうことを実証研究で示したのは凄いと思います。

以上のような「教育の経済理論」を現在の日本にあてはめてみるとどうなるだろう。(中略)多くの私立大学が、少子化時代での学生獲得のため、「実利的な知識」や「世俗的な有用性」を「教育商品」に仕立て、また、「資格獲得」や「就職活動の奨励と助成」を売り物にしようと躍起になっている。あまりにみごとにボウルス&ギンタスのいう「対応原理」が体現されているわけである。

(乾いた笑い)
そして最後は著者がちょっと自著のアピールをされておられます。でも整然とこんな感じで説かれたら,読みたくなりますよ。

子どもを実際に教えながら思い知らされたのは、数学を学ぶのは、「将来、何かの役に立つから」ではなく、「経済的な成功を得るため」でもなく、人間に生まれ、インネイトな知識を持ち、それを発現させる権利を持つからだ、ということだった。

以前,2007年9月のJSiSE@信州の帰りに,Sさんと車中でお話ししたことについて書きました

工学部系の人の考える「教育」は「ごはんを食べるため」のものなのですね。一方,文学部系の人間の考える「教育」は「善き人間」になるためのものか・・・と。

  • 「ごはんを食べるため」→上記Web記事の「実利的な知識」や「世俗的な有用性」
  • 『「善き人間」になるため』→「人間に生まれ、インネイトな知識を持ち、それを発現させる」

それぞれ対応しているような気がしました。

*1:関連文献など挙げるべきなのでしょうが,今日はちょっとお疲れモードなのでパス(汗