lionusの日記(旧はてなダイアリー)

「lionusの日記」http://d.hatena.ne.jp/lionus/としてかつてはてなダイアリーにあった記事を移転したものです。

目の前の画をオペラグラスで観る。

昨日の記事で書いた通り,特別展覧会 狩野永徳@京都国立博物館へ行ってきました。
現地には18時過ぎに着きましたが,昨日午後に目撃したような長蛇の列はなく,確かに場外で4列に並ばされましたが,10分待つか待たないかくらいで入場することができました。
同様に「大盛況」であった大絵巻展の時は,実は入場したらそのまま展示会場出口から入り,会場を「逆行」することにより人の流れに巻き込まれない戦術をとったのですが,今回は入口と出口が壁で仕切られていて,それは出来なくなっていました。ひょっとして昨年lionusのような行動をとる人間が多数現れたため,このような形になってしまったのでせうか?
今日は大人しく(?)入口から普通にゆるゆると観ていきました。
人は多かったですが,狩野永徳本人だけでなく,永徳を中心とした狩野派の様々な作品が展示されていて,非常に観るべきものが多く満足しました。
永徳本人の筆によるものと,彼以外の狩野派絵師によるものと代わる代わる観ているうちに,lionusなりに永徳の画の特徴が感じられてくるような気がしました。
永徳の画は,離れて観ても近くで観てもくっきりしているのです。
普通,西洋画は一歩引いて全体を観ないと味わえないですよね。特に油絵などは筆致が荒いので,近くで見ると訳分からんです。しかし永徳の画は近くで観ても一歩引いて観ても印象が不思議と変わらないのです。
確かに,全体の構成を楽しむためには一歩引いて眺める必要がありますので,そうして観ますが,そうするとまた不思議な感じがしてくるのです。
この感じは何だろうと,「花鳥図襖」や「唐獅子図屏風」等,永徳作とされている作品を近くで観て,また一歩引いて人の頭越しに眺めてみたりして考えたところ,この人の画にはピントがないというか,画面の中の全てのものにピントが合っていて,全ての要素が一度に目の中に飛び込んでくるような印象があるなと思いました。全てのものに等しくピントが合っているということは,平面的で奥行きが感じられないということに通じるように普通に考えたら思うのですが,不思議に奥行きと空気が感じられるのが特異的でした。
他の狩野派の絵師は,描き方そのものは永徳と共通している点が多々あり,並べてよくよく観ないとlionusのような素人には違いが分かりませんが,代わる代わる観ていると,他の絵師のものは,画面の中の要素が「お行儀良く」並んでいるような感じで,今ひとつ迫力に欠ける(永徳に比べたらですが)印象を受けました。
大体1時間半*1ほどで鑑賞できましたが,有名な「洛中洛外図屏風」の前は多くの人が張り付き膠着状態で,係員の人が「止まらずに歩きながらご鑑賞ください」と絶えず必死で叫んでおられ,他人事ながら大変だなと思いました。
人の頭越しに,オペラグラスで鑑賞している人もいて(でもガラスからの距離は1m程度),こういう光景は初めて見たのでびっくりしました。
また,作品を保護するガラスに鼻の(顔の)脂とおぼしき汚れがかなり付いていたのも少しびっくりでした。もっと近くで細かく見たいという欲望の証拠ですね。
なぜ皆,画の前から動かないかというと,やはり上述のように「近くで観ても丁寧に精密に描かれていて面白く,離れて観ても構成の緻密さが飛び込んできて面白い」という性質があるのではないかと推察します。
会場出口ではグッズ販売をしており,今回の展覧会図録がなんと2500円で販売されていたので買ってしまいました。図がふんだんに入って2cmほどの分厚さですから,お得感アリアリです。売れ行きは好調のようでしたので,多数売れることによるスケールメリットを予想して価格設定を下げたのでしょうか。lionus猫にはよく分かりませんが,猫の親戚の唐獅子が表紙になっている図録を手に,満足感たっぷりで帰ることができました。

*1:今日は疲れていたので,自分的には流し見気味。きちんと観たら2時間はゆうに超える内容だと思います。